鎌倉トリップ 「材木座の寺社巡り〜Part.2」
「材木座の寺社巡り〜Part.2」は「来迎寺」からスタート。
「来迎寺」は、鎌倉市の中でも材木座と西御門(にしみかど)と、2つあります。
材木座の住宅地の奥地。
山裾にこじんまりと佇む、材木座の「来迎寺」。
材木座の「来迎寺」はもと、源義朝、頼朝親子を支えた三浦の名将三浦義明ゆかりのお寺さん。
本堂の裏には、三浦一族の墓100基もの五輪塔があり、八百年以上も大切に守られてきたもの。
由来は、源頼朝が1194年(建久5)に源頼朝旗揚げの時に頼朝に加勢して平家方の軍勢と闘い、89歳で戦死した三浦半島の衣笠城主・三浦大介義明(みうらおおすけよしあき)の冥福を祈って建てた真言宗・能蔵寺(のうぞうじ)というお寺の前身。
境内には、三浦大介義明とともに17歳の若さで戦死した多々良三郎重春の墓と言われる五輪塔もあります。
能蔵寺は開山の音阿が時宗に帰依し、来迎寺と改められました。
お次は鎌倉十橋のひとつ、「乱橋」。
鎌倉新田義貞が鎌倉に攻め入ったときに、北条軍が乱れ始めた場所であることから「乱橋」と呼ばれるようになったという伝承があり、「五所神社」に乱橋の手摺石が残っている。
さて、水道路から大きな通りを海に向かって歩いていくと、日蓮上人の像ときれいな板塀が目印の「妙長寺」が見えてきた。
妙長寺(日蓮宗)は、日蓮の伊豆流罪の際(伊豆法難)、日蓮の命を救った漁師「舟守弥三郎」の子(日実)が創建した寺と言われている。
もしくは弥三郎本人という説もあるとか。
また、文学との結びつきも強く、1891年(明治24年)には、作家・泉鏡花が数か月滞在し、泉鏡花の作品「みだれ橋」(のちに「星あかり」に改題)にも登場する。
妙長寺で過したのち、尾崎紅葉に弟子入りしたんだそう。
もとより何故といふ理はないので、墓石の倒れたのを引摺寄せて、二ツばかり重かさねて臺にした。
其の上に乘つて、雨戸の引合せの上の方を、ガタ/\動かして見たが、開きさうにもない。
雨戸の中は、相州西鎌倉亂橋の妙長寺といふ、法華宗の寺の、本堂に隣つた八疊の、横に長い置床の附いた座敷で、向つて左手に、葛籠、革鞄などを置いた際に、山科といふ醫學生が、四六の借蚊帳を釣つて寢て居るのである。
今度は反対側の住宅地の奥に、「向福寺」を発見。
とってもひっそりとしているので、ほんの少しドキドキしました。
踊り念仏の一派、一向宗(現・時宗)のお寺さん。
境内はとってもこじんまりとしていて、本当にのどか。
なんだかアットホームで落ち着く雰囲気だなぁと思いました。
ついに、材木座寺社巡りの締め、「補陀洛寺」へやってきます。
人が一人、やっと歩けるか、というような幅の路地裏を歩いて到着。
1181年(養和元年)に源頼朝が打倒平家を祈るために建立した寺で、開山は文覚上人。
見どころは珍しい彫像なんだとか。
寺宝には、頼朝にゆかりの物が多く、中でも珍しいのが、平家の赤旗で、平家の総大将平宗盛が最後まで持っていたものだといわれ、頼朝がこの寺に奉納したという。
境内の入り口には、頼朝の名が刻まれた石碑が今でも残ります。
とても小さな寺院ですが、全盛期には七堂伽藍を擁した大寺院だったらしく、たびたび竜巻にあったため「竜巻寺」と呼ばれています。
その竜巻のおかげで、大事な古文書のほとんどは全て失ってしまったそう。
寺名の「補陀落」とは、仏教において観音さまの住まうところ、または観音菩薩が降り立つところを意味しており、その名の通りご本尊には十一面観世音菩薩(鎌倉三十三観音、17番札所)を祀ります。
狭い本堂ですが中を覗くと圧倒されるほどたくさんの仏像が並び、とても雰囲気のあるお寺さんなのでした。
こうやって、材木座を歩いていると、車やバスでは見つけられないものをたくさん発見できて嬉しい。
こんな狭い路地裏に小さなお店を見つけたり、ギャラリーがあったり。
その度に心の中で、感嘆の声をあげる私。
材木座は、ローカルな人々しか知らないような道が家と家の間を通り、そこを猫が歩いていたりする、とてものどかな海町なんですね。
とても楽しい材木座散策、かなりおすすめです。